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思考と存在

  • 2014年4月4日
  • 読了時間: 2分

幼少期以来(約20年ぶり)の立体造形を試みた。

それは促されつつもごく自然な流れだったのかもしれない。

平面作品にのせる絵の具は日に日に厚みを増し、私は絵の具自体に触れてそれをこねくりまわしたいという衝動に駆られていた。

その時にごくごくポピュラーな「粘土」という素材と対峙する事にした。着彩に関してもこれまたありがちなアクリル絵の具を用いた。それにニスをかけて完成だ。

それは小学生の頃に励んでいたものと素材的な違いは無い。

ならば、今ここに存在しているものと昔のそれとの違いはなんなのだろうか。この度立体を制作するにあたり「存在」というキーワードを元に思考と感情を巡らせた。

私は以前「彼らの存在とは」という小品を平面作品で発表した。

「彼ら」とは、存在無き存在としてカタチになって現れた。「彼ら」は死と生の境界にあって沈む私を、浮上する私をただその存在のみを宿して見つめるものだった。

私は「彼ら」の在り方について素朴な疑問を持っていた。

「存在しているのにその存在を示さない彼らは存在していると言えるのだろうか?」「自身の存在を否定しようとして私が残した痕跡は結果的に存在の肯定をせざるをえないものではなかったのか?」

不在の存在を感じる事ができたとき、それは既に存在の証明としての行為に繋がる。存在の証明即ち生存への執着を放棄してはならない。それとは逆の包容を求めることは許されるのか。

「境界」の「彼ら」は何も持たずに、そのどちらをも有する。矛盾を孕む事は美しい。「彼ら」の美しさと矛盾を孕む故の儚さ。その「不在の存在」を見つめる。生存のループの中にある思考に関するループ。拒否という逃避の先にはそれに対する自分自身からの非難が待ち受けている。

私はその堂々巡りをする決意をした。


 
 
 

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